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北畠具教 きたばたけ とものり (1528~1576) 北畠家
 伊勢国司北畠家8代当主。1553年、父・具晴の隠居により家督を継ぎ伊勢国内に勢力を広げて北畠家の全盛期を築いた。1569年から始まった織田信長の伊勢侵攻に対して善戦したが、兵力差の前に敗れ、信長の次男・信雄を嫡男・具房の養嗣子とすることで事実上降伏といえる和睦をした。しかし、武田信玄の上洛に協力する密約を結ぶなど、信長には心服せず、1576年に信長や信雄の命を受けた旧臣たちの襲撃をうけて殺害された(三瀬の変)。塚原卜伝に奥義「一の太刀」を伝授されたほどの剣豪で、襲撃の際には十数人を道連れにしたという。剣聖・上泉信綱からも学んだことがあり、親交のあった柳生宗厳(石舟斎)宝蔵院胤栄を信綱に紹介したことでも知られる。


北畠具房 きたばたけ ともふさ (1547~1580) 北畠家
 伊勢国司北畠家9代当主。具教の嫡男。1563年、父・具教が隠居したため家督を継ぐが実権は父に握られたままであった。1569年、織田信長が伊勢に侵攻してくると、父と共に戦うが敗れ、信長の次男・信雄を養嗣子とすることで降伏した(信雄は具教の養嗣子とも)。1576年、三瀬の変で織田家に心服していなかった父が信長、信雄によって殺害されると、滝川一益の預かりとなり3年間幽閉された。のちに幽閉は解かれるが、その直後に亡くなった。剣豪の父とは異なり、馬にも乗れないほどの肥満体であったといわれる。


土岐頼芸 とき よりのり (1502~1582) 土岐家
 美濃の守護大名。美濃守護代・斎藤家の名跡を継いだ道三と協力して兄・頼武を追放し守護の座に就いた。しかし、新たな野望を抱いた道三によって弟が毒殺されると道三と対立、最後は敗れて美濃を追放された。その後は土岐家の庶流を頼って各地を転々とする。本能寺の変後、稲葉良通(一鉄)のはからいで美濃に帰国できたが、まもなくして亡くなった。


戸田康光 とだ やすみつ (?~1547) 戸田家
 三河の戦国武将。三河田原城主。渥美半島一帯に勢力を誇ったが、北は松平家、東は今川家と大きな勢力に圧迫され、松平清康に従った。清康が家臣に殺された後も娘を清康の子・広忠に嫁がせて関係を深め、広忠が今川義元に従うと同じく服属した。広忠が服属の証に嫡男・竹千代(のちの徳川家康)を人質として義元のもとへ出すことを決めると、その護衛役を任されるが、尾張の織田信秀信長の父)に通じて竹千代を誘拐し、信秀に引き渡した。広忠も織田方に寝返らせるつもりだったのかもしれないが、広忠は寝返らず、義元による討伐を受けて討死した。


丹羽氏次 にわ うじつぐ (1550~1601) 丹羽家
 尾張岩崎城主。織田信長に仕え、甲州征伐で活躍した。本能寺の変後は信長の二男・信雄に仕え、信雄の勘気を被ると徳川家康に仕えた。家康のもとでは小牧・長久手の戦いに参加し、榊原康政の先遣隊に属して武功を挙げた。その後、家康のとりなしで再び信雄に仕え、信雄が改易となると豊臣秀次に仕えた。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、戦後、三河伊保1万石を拝領して大名に列した。丹羽姓であるが、丹羽長秀との縁戚関係はない。


丹羽氏重 にわ うじしげ (1569~1584) 丹羽家
 尾張岩崎城主・丹羽氏次の弟。小牧・長久手の戦いで徳川家康のもとに馳せ参じた兄に代わって城を守備した。羽柴(豊臣)秀次が率いる岡崎城への奇襲部隊が来ると、城から打って出て第一陣の池田恒興隊を引きつけて城までおびき出し、3度まで撃退して城兵238名全員と共に討死した。しかし、その足止めは功を奏し、長久手の戦いで徳川勢が勝利するきっかけとなった。


水野忠政 みずの ただまさ (1493~1543) 水野家
 尾張の戦国武将。尾張緒川城主。知多半島北部に勢力を誇り、のちに刈谷城を築いて居城とした。三河の松平広忠に娘・於大を嫁がせて勢力の保持を図り、広忠と共に今川義元に従った。死の直前、於大と広忠との間に竹千代(のちの徳川家康)が生まれている。


水野信元 みずの のぶもと (?~1576) 水野家
 尾張の戦国武将。忠政の子。妹・於大は徳川家康の生母で家康の伯父にあたる。父・忠政の病死により家督を継ぐ。忠政は、松平広忠に娘・於大を嫁がせ、松平家と共に今川義元に従っていたが、信元は今川家との縁を切り、織田信秀に従った。そのため、於大は広忠から離縁されている。信秀死後は信長に従い、桶狭間の戦い後に結ばれた清州同盟では、信長と徳川家康の仲介役をつとめた。その後、上洛戦や姉川の戦いに参加、三方ヶ原の戦いでは家康の援軍として参加した。長篠の戦い後、佐久間信盛の讒言により武田勝頼との内通を疑われ、信長の命を受けた家康によって殺害された。


水野忠重 みずの ただしげ (1541~1600) 水野家
 尾張の戦国武将。忠政の子。信元の弟。兄・信元と共に織田信長に従っていたが、信元と不和となり徳川家康に仕えた。1576年に信元が武田家との内通の疑いで殺害されると、信長から刈谷城を与えられ織田家臣となり、本能寺の変後は織田信雄、信雄が改易となると豊臣秀吉に仕えた。秀吉死後は再び家康に仕えるが、関ヶ原の直前に堀尾吉晴を歓待した酒宴の席で西軍方の加賀井重望に暗殺された。主君を多く変えながらも、姉川の戦い三方ヶ原の戦い、甲州征伐、九州征伐、小田原征伐と各地を転戦した歴戦の武将だった。


畠山義総 はたけやま よしふさ (1491~1545) 能登畠山家
 能登の戦国大名。斯波家、細川家と並ぶ三管領家・畠山家の庶流。能登畠山7代当主で5代当主・慶致の子。父・慶致は、家臣の謀反によって追放された4代当主・義元(慶致の兄)に代わって擁立されたという経緯があり、足利義稙大内義興に奉じられて室町幕府10代将軍となると、親義稙派だった義元が復帰して6代当主となった。その際、父・義致は隠居し、義総は義元の養嗣子となる。その後、義元と共に一向一揆や家臣の内乱を鎮圧して当主の権力強化に成功した。1515年に義元が亡くなり当主となると、堅城・七尾城を築いて居城とし、城下町を整備した。義総は文化人でもあったため、城下には京から戦火を逃れてきた公家、連歌師、歌人、猿楽大夫らが多く集まり、商人も定住、30年に及ぶ治世で能登畠山家の全盛期を築き上げた。


畠山義続 はたけやま よしつぐ (?~1590) 能登畠山家
 能登の戦国大名。能登畠山家8代当主。義総の次男。1545年に父・義総が亡くなると、長兄が早世していたため家督を継いだ。父・義総は名君の誉れ高く、能登畠山家の全盛期を築いたが、義続には父ほどの統率力がなく、重臣たちの権力争い「能登天文の内乱」を招いてしまい、次第に畠山七人衆と呼ばれる重臣たちの傀儡となっていった。内乱を鎮めることができなかった責を負う形で家督を子・義綱に譲るが、権力回復の機会は狙っており、1555年に義綱と共に七人衆の実権を握っていた温井総貞を討って実権を取り戻す。しかし、1566年に再び家臣らに反乱を起こされ、義綱と共に国外に追放された。


畠山義綱 はたけやま よしつな (?~1593) 能登畠山家
 能登の戦国大名。能登畠山家9代当主。義続の子。1551年、父が前年に起きた「能登天文の内乱」の責任をとって隠居したため家督を継いだ。この頃になると、畠山家の当主は、畠山七人衆と呼ばれる重臣たちの傀儡と化していたが、1555年に七人衆の実権を握っていた温井総貞を父と共に討って実権を取り戻した。しかし、1566年に長続連遊佐続光ら重臣たちの反乱により追放され、近江の六角家を頼った。その後、六角家や上杉謙信の助力を得て能登に侵攻することもあったが、復権は叶わなかった。


畠山義慶 はたけやま よしのり (1554~1574) 能登畠山家
 能登の戦国大名。能登畠山家10代当主。義綱の嫡男。1566年の「永禄九年の政変」で、祖父・義続、父・義綱が国外に追放されると、政変を起こした長続連遊佐続光らによって擁立され当主となった。完全な傀儡君主で、1574年に謎の死を遂げた(毒殺、暗殺説あり)。跡は弟の義隆が継ぐが、義隆も1576年に謎の死を遂げたという。義慶と義隆は同一人物だという説があり、同一人物だとすれば子、別人だとすれば甥である春王丸が跡を継いだ。


畠山義隆 はたけやま よしたか (1556~1576) 能登畠山家
 能登の戦国大名。能登畠山家11代当主。義綱の次男。1566年に祖父・義続、父・義綱が有力重臣らの反感をかって国外に追放されると、当主に擁立された兄・義慶の補佐にあたったという。1574年に義慶が急死(毒殺?)すると、当主となるが、わずか2年で急死したため、兄と同様、毒殺されたともいわれる。死後、家督は子・春王丸が継いだ。


長続連 ちょう つぐつら (1515~1577) 能登畠山家
 能登畠山家臣。畠山七人衆のひとり。義続義綱義慶、義隆(義慶と同一人物説あり)の四代にわたって仕えたが、そのうち、義続と義綱は有力家臣を排して権力強化を図ろうとしたため、遊佐続光らと協力して彼らを国外に追放した。義慶の代になると、義慶を傀儡として家中で他を寄せ付けないほどの権勢を誇った。1576年から上杉謙信の侵攻を受け、持ち堪えていたが、1577年、織田信長に援軍を要請するも間に合わず、謙信に内応した続光らによって一族みな殺しにされた。


長連龍 ちょう つらたつ (1546~1619) 能登畠山家
 能登畠山家臣。続連の三男。1576年、77年と上杉謙信が能登に侵攻してくると、父・続連の命を受けて織田信長の元へ援軍要請の使者として赴いた。援軍を取り付けて、援軍と共に七尾城へ向かうが、その途中で七尾城の落城と謙信に内応した遊佐続光によって父・続連をはじめ一族のほとんどが殺害されたことを聞き、織田家中に残る。その後、前田利家が23万石で能登に入ると、前田家臣となった。


遊佐続光 ゆさ つぐみつ (?~1581) 能登畠山家
 能登畠山家臣。畠山七人衆のひとり。義続義綱義慶、義隆(義慶と同一人物説あり)の四代にわたって仕えたが、そのうち、義続と義綱は有力家臣を排して権力強化を図ろうとしたため、長続連らと協力して彼らを国外に追放した。義慶の代になった当初は、家中で絶大な権勢を誇っていたが、織田信長の勢力が能登に伸び始めると、親信長派だった長続連にその座を奪われた。1576年から上杉謙信の能登侵攻が始まると、1577年に謙信に内応して続連ら一族を殺害して再び権勢を取り戻した。しかし、その翌年、謙信が没したため、織田軍の侵攻を受けることになり、降伏したが許されず、処刑された。